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第23話 ロマンチックな中国人 (2009年01月07日)
A「愛している。たとえ海が涸れ石が砕け悠久の時が経とうとも、僕のこの心は永久に変わらない」、B「君と1日会わなかっただけで、まるで秋が3回も去った様だ」、C「この世で一生君を愛する。さらにあの世でも一生君を愛する」、D「君のためなら、たとえこの両脇を刺されようとも本望だ」、E「死ぬ程君を想っている」、「たとえ全世界の勝者になろうとも、君を失っては何の意味も無い」、「君へのこの想いを骨に刻む」、「君の全てが好きだ。君の家の屋根にとまるカラスでさえも好きなのだ」、、、、
正月早々恐縮ながら、日本人であればそろそろ胸焼けがしてきた方が大半ではなかろうか。しかし、これは映画や小説の中の台詞では無い。一般の中国人が普通に使っているノンフィクションの恋愛トークである。良く言えばロマンチックな甘美な言葉、悪く言えば歯の浮く様な台詞。と言うよりも、こんな事、本当に中国人は言っているのか? 下表はその証明である。上海在住20~30代大学卒男女の協力によるいつもの50人アンケートの結果だ。 注1) そこで、この拙文を文学性溢れる素敵な中文に翻訳をしてくれているyunyunさん(上海人,20代女性,大学教員,日本語の敬語やボキャブラリーは今の日本人20代よりも上 by 老松評価)に尋ねてみた。 老松:と云うアンケート結果なんだけど、猫虎飯店でも何度か話題にした誇張表現について、翻訳時にその違いに気を付けていませんか? yunyun:考えた事は無いんですけど、確かにそうですね。そう言われてみると、無意識に意訳していると思います。 老松:例えば? yunyun:え~、直ぐには良い例を思いつきませんが、例えば日本語で“よい”は、中国語にすると“很好”でしょう。決して直訳で“好”にはなりませんよね。 老松:そうですね。日本語を中国語に訳す際は、一段上の表現を使わないと中国語らしくありませんからね。 yunyun:その通りです。その点は、自然に対応しているのだと思います。喋る時もあまり気にしてはいませんが、多分それも無意識に対応しているんでしょうかねぇ。 老松:そうだと思いますよ。だってyunyunさん程の流暢な日本語であれば、日本語を話す時の思考は完全に日本語ですから、絶対その筈です。 yunyun:いえいえ。 老松:私事ですみませんが、私は日本人にしては珍しいオーバーな性格ですから、日本語を話す時には頭に浮かんだ表現よりも一段下を使う様に心掛けています。この心掛けは始めて1年ちょっとですのでなかなか習慣迄には至らず、母語なのにストレスが溜まる変な状態です(笑) 一方、中国語は未熟ながらそのストレスから開放され、とっても気持ちがいいのです。非常非常非常感謝なんて、私の性格にぴったりのしつこさでも全く問題有りませんから(笑) さて、冒頭の恋愛トークはその表現の差のせいだけであろうか? どうもそれだけでは無い様な気がする。それは、中国人のロマンチックな性格、自分に酔うナルシストなところ、この辺も大いに絡んでいるのではないか。注2) 紙面の関係で今回は1つだけ、結婚写真を例に出そう。そのポーズの数、注ぎ込む費用、中国人の結婚写真に賭ける思いは凄い。日本人であれば絶対に敬遠する様な、と言うよりもそもそもその様なポーズが日本では存在しない2人だけの世界、そのポーズをオフィスの机に飾って公開する人すらいるのである。「愛している。たとえ海が涸れ石が砕ける悠久の時が経とうとも、僕のこの心は永久に変わらない」と求愛しながら、自分の言葉に酔い恋愛に酔い自分に酔う。何か芝居がかっている、と日本人は思うのであるが、これも習慣の差だ。お互いがその差を認識出来れば安泰である。
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コラムニスト | 松原弘明 |
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最終更新日 | 2011-08-20 |